滅亡!尼子氏

山中鹿介(やまなかしかのすけ)/wikipediaより引用

 初陣で有名な敵将を一騎打ちで破った山中鹿介(やまなかしかのすけ)でしたが、仕える尼子氏は衰退しつつありました。
 一時期は、中国地方8ヵ国(現在の島根県、鳥取県、岡山県)の守護として権勢を誇っていました。しかし、大内氏の旧領を治めた毛利元就(もうりもとなり)の猛攻にさらされていたのです。

 永禄3年12月24日(1561年1月9日)長年、毛利氏と一進一退の戦いを繰り広げた尼子晴久(あまごはるひさ)が、居城で急死してしまいます。この報を受けた毛利元就(もうりもとなり)は、「一度でいいから旗本同士で戦いたかった」と、残念がったと伝えられるほどの名将でした。
 そんな、尼子晴久(あまごはるひさ)の跡を継いだのが、尼子義久(あまごよしひさ)です。

毛利氏の勢力が拡大していきます

 この当時、尼子氏は石見国(いわみのくに ※現在の島根県)に侵攻してきた毛利氏と戦っていました。尼子義久(あまごよしひさ)は今までの方針を変えて、室町幕府から和睦(わぼく)するように斡旋してもらい、戦いを回避しようとしました(毛利氏は和睦を受け入れなかった)。

 その結果、尼子氏は石見国から手を引いたのですが、尼子側についていた石見の国人衆(その土地に、独自の勢力を持った武士のこと。今風にいうと市長、町長、村長、地主みたいなもの)は悲惨でした。
 毛利氏に抵抗したために、滅亡もしくは毛利方の味方につかざるを得なかったのです。他国の尼子方だった国人衆たちも、尼子氏には頼れないと次々と毛利氏に鞍替えしていきます。

 毛利氏との和睦という、尼子義久(あまごよしひさ)の外交政策ミスが、尼子氏の勢力を崩壊させていくのです。

数十人の敵に囲まれて大ピンチ!?

 永禄5年(1562年)6月に、石見国を手に入れた毛利元就(もうりもとなり)は尼子氏の本拠地である出雲(いずも ※現在の島根県)に攻め込みました。

 尼子方の国人衆は次々と降伏していき、永禄5年12月(1563年1月)には、尼子氏の居城である月山富田城(がっさんとだじょう)攻めを開始します。

 毛利軍が月山富田城(がっさんとだじょう)を包囲してる時の、山中鹿介(やまなかしかのすけ)のエピソードをここで一つ。

 永禄5年(1562年)、1人で城下に出掛けたら敵に見つかり、30~40人に囲まれてしまいます。
 絶体絶命のピンチだったのですが、いきなり2人の敵を切り落として、そのまま乱戦となりました。乱戦では16~17人を討ち取り、残った敵兵も1人で全員撃退します。
 この後何もなかったかのように、近くの民家でご飯を食べて、城に帰ったという話があります。すごい胆力ですよね! 

負け戦だけど殿(しんがり)で大活躍

白鹿城の戦いにおける主要城郭の位置/wikipediaより引用

 毛里軍は月山富田城(がっさんとだじょう)への補給路を断つため、永禄6年8月13日(1563年8月31日)、白鹿城(しらがじょう)への総攻撃を開始します。

 これに対して、尼子倫久(あまごともひさ)を大将とした援軍を派遣します。この軍に山中鹿介(やまなかしかのすけ)も従軍しましたが、戦いは毛利軍が勝利して月山富田城(がっさんとだじょう)に退却することになります。

白鹿城遠景/wikipediaより引用

 退却時に山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、約200人の兵を率いて殿(しんがり)をつとめます。 
 ※殿とは後退する部隊の中で、最後尾を担当する部隊のことです。基本的には死を前提にしていて、勇気がいる役割でした。

 追撃してくる毛利軍を7度にわたり撃退した山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、敵の首を7つも討ち取る手柄をあげました。しかし、肝心の白鹿城(しらがじょう)は落城、これにより尼子氏は、日本海から島根半島を結ぶ補給路を絶たれることになったのです。

月山富田城の戦い

 白鹿城(しらがじょう)を落とした毛利軍は、月山富田城(がっさんとだじょう)の東に位置する、伯耆国(ほうきのくに ※現在の鳥取県)の西側を攻略します。

 尼子軍は、毛利方に寝返った行松氏(ゆきまつし)の尾高城攻略に向け進軍を開始しました。美保関(現在の島根県松江市美保関町)では毛利軍を破り(弓浜合戦)ますが、尾高城の攻略には失敗し伯耆国(ほうきのくに ※現在の鳥取県)は毛利軍に支配されてしまいます。

弓浜合戦に至るまでの毛利軍・尼子軍の行軍ルート/wikipediaより引用

 永禄8年(1565年)4月17日(5月16日)、孤立した月山富田城(がっさんとだじょう)に、毛利軍の総攻撃が始まります。迎え撃つ尼子軍は士気も高く攻めてくる毛利軍を押し返し撤退させます。
 山中鹿介(やまなかしかのすけ)は月山富田城への3つの進入口の1つである、塩谷口の守り吉川元春(きっかわもとはる)らの軍を撃退しました。さらには、毛利家の猛将・高野監物(たかのけんもつ)を、一騎討ちで討ち取っています。

品川将員(しながわまさかず)との一騎打ち

川中島の一騎討が行われた処に建つ碑/wikipediaより引用

 一度は撤退した毛利軍でしたが、9月になって再び月山富田城(がっさんとだじょう)に攻め込みます。

 この時、毛利方の品川将員(しながわまさかず)という、弓の名手で腕力の強い武将がいました。品川将員(しながわまさかず)は、勇将として有名な山中鹿介(やまなかしかのすけ)に一騎打ちを申し込みます。
 品川将員(しながわまさかず)は一騎打ちに勝つために、名前を変えて棫木狼之介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)と名乗るほど、気合いが入っていました(たらの若芽を鹿が食べると角が落ちると云われていて、狼は鹿に勝てる獣なのでこの名前に変えました)。

 一騎打ちを承諾した山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、富田川の中州(川中島)に向かうため川に飛び込みます。
 大弓をつがえたまま、川を渡ろうとする品川将員(しながわまさかず)の姿を見た尼子方の武将たちが、「一騎討ちの戦いに飛び道具を使用することは、臆病者の所業だ。お互いに名乗りを上げての勝負なので、太刀による打ち合いで行うべきだ」と大声をあげます。

 そんな声を無視して、川を渡る品川将員(しながわまさかず)にたまりかねた尼子方の武将が、矢を放ち品川将員(しながわまさかず)の弓の弦(つる)を切り落としました。

 弓での攻撃を阻止されて怒った品川将員(しながわまさかず)は、大太刀を抜いて山中鹿介(やまなかしかのすけ)に切りかかります。山中鹿介(やまなかしかのすけ)も、太刀を抜いて応じ2時間余り戦います。しかし、力量に勝る山中鹿介(やまなかしかのすけ)が、品川将員(しながわまさかず)を追い詰めました。

 このままでは不利と感じた品川将員(しながわまさかず)は、「取っ組み合いで勝負を決めよう」と提案し、山中鹿介(やまなかしかのすけ)もそれに応じます。

 取っ組み合いは力が強い品川将員(しながわまさかず)が圧倒して、山中鹿介(やまなかしかのすけ)を組み伏せます。しかし、組み伏せられた山中鹿介(やまなかしかのすけ)が、下から腰刀を抜いて太ももを切りつけ、力が抜けた品川将員(しながわまさかず)を跳ね返して首を切り落とします。

 一騎打ちに勝った山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、「石見の国(いわみのくに)より出でたる狼を、出雲(いずも)の鹿が討ち取った。もとより棫の木(タラノキ)は好物なり。我に続け」と、味方を鼓舞して帰陣したと雲陽軍実記では伝えています。

 また同月に、山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、毛利軍に夜討ちして、多数の兵も討ち取り活躍しますが、大局に影響することはありませんでした。

尼子氏の滅亡

 山中鹿介(やまなかしかのすけ)との一騎打ちで、品川将員(しながわまさかず)を倒された毛利軍ですが、月山富田城(がっさんとだじょう)を力攻めをせずに、城を取り囲み兵糧攻めを続けます。
 兵糧が減り続ける城内からは、投降する者が出始めます。しかし、毛利軍は城兵の降伏を一切許さず、投降してきた者を処刑しました。これは、孤立して補給の断たれた城に多くの兵を籠らせて、兵糧を食べ尽くさせる作戦だったからです。
 冬も近づき兵糧が底をつき始めたころに、毛利軍は降伏を認める高札を立てます。これを見た、尼子方の籠城兵は集団で投降し、尼子氏の譜代家臣まで投降し始めました。

 尼子側も、宇山久兼(うやまひさかね)が主君の尼子義久(あまごよしひさ)を励まし、私財を投げ打って兵糧を調達するなどしていました。しかし、大塚与三衛門(おおつかよさえもん)が、宇山久兼(うやまひさかね)が毛利方に寝返ろうとしていると尼子義久(あまごよしひさ)に讒言します。それを信じた尼子義久(あまごよしひさ)は、宇山久兼(うやまひさかね)を殺してしまいます。
 この出来事で士気が低下していた将兵が、高札を見て次々と投降してしまったのです。

 永禄9年(1566年)11月21日、ついに尼子義久(あまごよしひさ)は降伏を決意します。毛利側も、尼子一族の命を保証して、安芸国(あきのくに ※現在の広島県)に幽閉します。
 ここに、中国地方最大の勢力を誇った尼子氏が、滅亡したかと思ったのですが、納得しなかった者たちがいました。
 山中鹿介(やまなかしかのすけ)ら、旧尼子氏の家臣たちです。彼らは、尼子氏の再興をするため活動を始めることになります。

「山陰の麒麟児」と呼ばれた男「山中鹿介」③に続く

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