山中鹿介(やまなかしかのすけ)/wikipediaより引用

 永禄9年(1566年)11月21日、月山富田城(がっさんとだじょう)に籠城した尼子義久(あまごよしひさ)は、毛利軍に降伏します。降伏した尼子一族は、安芸国(あきのくに ※現在の広島県)に幽閉されることになりました。山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、主君についていこうとしますが許されず、出雲大社で別れることになります。
 主君と別れた山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、旧尼子家の家臣たちと共に、滅亡した尼子家の再興に生涯をかけることになります。

諸国流浪から尼子再興軍の結成に

 尼子家が滅亡して浪人となった山中鹿介(やまなかしかのすけ)の、2年間の足取りはよくわかっていません。諸説ありますが、有馬温泉で傷を癒した後は、東国に行って武田信玄(たけだしんげん)上杉謙信(うえすぎけんしん)北条氏康(ほうじょううじやす)などの軍法を学んだとされています。

 永禄11年(1568年)、山中鹿介(やまなかしかのすけ)は叔父の立原久綱(たちはらひさつな)と、「新宮党(しんぐうとう)」の粛清で自害した尼子誠久(あまごさねひさ)の遺児で、京都の東福寺で僧をしていてた尼子勝久(あまごかつひさ)のもとに訪れ還俗させます。そして、各地の旧尼子家臣を集めて尼子再興軍を結成して、挙兵の機会をうかがうことになります。

尼子勝久(あまごかつひさ)/wikipediaより引用

尼子再興軍の雲州侵攻

 永禄12年4月(1569年5月)、毛利元就(もうりもとなり)が、九州の大友(おおとも)氏を攻めるため軍を北九州に派遣することで好機が訪れます。
 毛利氏と大友氏の争いは2年間にわたり、戦線は膠着し長期戦の様相を呈していました。

 毛利(もうり)氏の主力が北九州から動けないと知った山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、尼子勝久(あまごかつひさ)を総大将として挙兵します。最初は数百人しかいなかった尼子再興軍ですが、永禄12年6月23日(1569年8月6日)に、島根半島の千酌(ちくみ)湾の近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠しました。ここから、尼子勝久(あまごかつひさ)は尼子家再興の激を飛ばします。この激に応じた旧尼子家臣が続々と集結して、総勢3,000人もの軍勢になります。

忠山の山頂から望む島根半島の千酌湾/wikipediaより引用

 出雲(いずも)に攻め込んだ尼子再興軍がまず目指したのは、かつて白鹿城の戦いで毛利方の吉川元春(きっかわもとはる)が陣を敷いた拠点でもあった新山城(しんやまじょう)でした。新山城(しんやまじょう)は、補給の要所で月山富田城(がっさんとだじょう)の補給路を断つための重要拠点でした。

 城を巡る戦いは、尼子再興軍と一戦で負けた毛利軍が城を捨てて退却したため、たった1日で新山城(しんやまじょう)を手に入れることに成功しました。その後、尼子再興軍は、かつての尼子氏の居城である月山富田城(がっさんとだじょう)を攻略するため、山陰地方で合戦を繰り広げ勢力を拡大していきます。

尼子再興軍が出雲を席巻

 永禄12年7月中旬(1569年8月下旬)、尼子再興軍は月山富田城(がっさんとだじょう)の攻略を始めます。
 この時、城を守る城兵は300人たらずと少人数だったのですが、城を守る天野隆重(あまのたかしげ)は、城主の毛利元秋(もうりうあきもと)と相談して一計を案じます。それは、尼子再興軍に降伏するとウソの書状を送り、城の奥まで誘い込み奇襲をかけるというものでした。この奇襲は見事に当たり、降伏を信じた尼子再興軍の秋上宗信(あきがみむねのぶ)の部隊は、多数の死傷者を出し撤退することになります。

天野隆重(あまのたかしげ)/wikipediaより引用

 その後、山中鹿介(やまなかしかのすけ)と立原久綱(たちはらひさつな)ら率いる1,000人の兵で攻めこみますが、城を落とせません。
 月山富田城(がっさんとだじょう)攻略に手間取った尼子再興軍に対して、石見銀山(いわみぎんざん ※現在の島根県大田市にあった銀山)を守っていた毛利軍3,000人が原手郡(はらてぐん ※現在の島根県出雲市斐川町)に進軍してきました。山中鹿介(やまなかしかのすけ)ら尼子再興軍は、2,700人の兵で、これを迎え撃ち撃退します(原手合戦)。

 この戦いの後、出雲国(いずものくに ※現在の島根県)の16の城を攻略した尼子再興軍は、6,000人余りにまで膨れ上がりました。さらには、毛利側についていた米原綱寛(よねばらつなひろ)ら旧尼子家臣たちが味方についたので、出雲国(いずものくに ※現在の島根県)一帯を支配することに成功します。

 月山富田城(がっさんとだじょう)も落城までには至りませんが、兵糧が欠乏し城兵の投降が続き、尼子再興軍が優勢な状態でした。ここまで順調だった尼子再興軍でしたが、ここから勢いが衰退していきます。

毛利軍の反撃!

 永禄12年9月(1569年10月)、味方であった隠岐為清(おきためきよ)が突如反乱を起こします。反乱の理由は謎ですが、原手合戦において、弟よりも恩賞が少なかったからと『雲陽郡実記』では書かれています。
 反乱は最初、数に勝る隠岐為清(おきためきよ)の軍が優勢でしたが、援軍を得た尼子再興軍によって鎮圧されます。この反乱によって月山富田城(がっさんとだじょう)の攻略が遅れ、毛利軍の主力が援軍として着くまでの時間を得ることになります。

 永禄12年10月11日(1569年6月17日)、毛利元就(もうりもとなり)によって滅ぼされた大内氏(中国地方を支配していた大名)の一族、大内輝弘(おおうちてるひろ)が大友氏の支援を受け、周防国(すおうのくに ※現在の山口県)で乱を起こします(大内輝弘の乱)。
 このピンチに毛利元就(もうりもとなり)は、膠着状態だった北九州からの撤退を決意し、わずかな兵を残し中国地方に兵を戻します。

毛利元就(もうりもとなり)/wikipediaより引用

 乱を起こした大内輝弘(おおうちてるひろ)は1週間ほどで討伐されてしまいました。総勢26,000の毛利軍を率いる毛利輝元(もうりてるもと)吉川元春(きっかわもとはる)小早川隆景(こばやかわたかかげ)らは、出雲国の尼子再興軍に向け進軍を開始します。
 尼子再興軍は布部(ふべ ※現在の島根県安来市広瀬町布部)を最終防衛ラインとして、進撃してくる毛利軍を迎え撃ちます。戦いは当初、布部山(ふべやま)に布陣して地の利がある尼子再興軍が優勢でした。山の上から鉄砲や弓矢で毛利軍を一方的に攻撃していきます。
 しかし、地元の豪族を買収した吉川元春(きっかわもとはる)が、布部山(ふべやま)の山頂に続く間道を聞き出したことで状況が変わります。間道から山頂に登り尼子再興軍本陣を急襲します。本陣を落とされた尼子再興軍は、毛利軍の攻勢を支えきれずに総崩れとなってしまいます。
 尼子再興軍は多数の将兵を討ち取られますが、殿(しんがり)として山中鹿介(やまなかしかのすけ)と立原久綱(たちはらひさつな)が奮戦して、居城の末次城(すえつぐじょう)に無事帰還します(布部山の戦い)。

敵に捕まりトイレから脱出!

 布部山の戦いで破れた尼子再興軍は、新山城(しんやまじょう)と高瀬城(たかせじょう)の2城となるまで追いつめられていました。一時期は、毛利元就(もうりもとなり)が重病に陥り、吉川元春(きっかわもとはる)を残して毛利軍が帰国すると勢いを取り戻しますが、再び毛利軍の援軍が来ると劣勢に立たされてしまいます。

 元亀2年8月20日(1571年9月8日)には、最後の拠点であった新山城(しんやまじょう)が落城、尼子勝久(あまごかつひさ)は落城前に隠岐(おき)に脱出し難を逃れます。

 末吉城(すえよしじょう)に籠っていた山中鹿介(やまなかしかのすけ)も戦いに敗れ、吉川元春(きっかわもとはる)に捕らえられます。捕まった山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、尾高城(おだかじょう)に幽閉されてしいます。毛利側からは、所領を与えるから仕えるように言われますが、これを拒否して「赤痢になった」と嘘をつき何度も厠(かわや ※トイレ)に行きます。
 あまりにも厠へ行く回数が多いので、付き添いの監視役も付いてこなくなりその隙を突いて脱出し、隠岐(おき)に逃れた尼子勝久(あまごかつひさ)の元に向かいます。この時の山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、糞まみれになりながら逃げたと伝えられていて、その執念には驚きます。
 こうして、第一次尼子家再興運動は失敗してしまいますが、このままでは終わりませんでした。

「山陰の麒麟児」と呼ばれた男「山中鹿介」④に続く

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